年表
天文元年 (1532) |
遠山隼人正景久が、吉祥寺の2代目であった大州安充大和尚を招いて和田倉門内に開山した。 |
永禄3年 (1560) |
景久の妻(北条綱成(1517-1587)の娘)永眠し、浄光院殿花蔭宗順大禅定尼として当寺に葬られた。 |
永禄7年 (1564) |
寺院の堂や塔、伽藍が全て完成し、文殊菩薩・普賢菩薩を脇士に、釈迦如来を本尊とした。 |
景久は正月8日、北総鴻台における北条里見の合戦で、父丹波守直景(注)と共に戦死し、瑞鳳院殿月渓正円大居士として当寺に葬られた。浄光院と瑞鳳院の二人の号を取り、当寺を瑞鳳山浄光院と名付けた。 | |
天正18年 (1590) |
徳川家康が江戸に入城し城郭を拡張修繕するにあたり、当寺は神田台に移動を命ぜられた。 |
慶長3年 (1598) |
神田台が駿河衆の御用屋敷となったため、小日向郷金杉村への移動を命ぜられた。この時、当寺を開いた遠山氏は没落したが、信州松本城主戸田丹波守康長・遠州堀江城主大澤左衛門佐基胤、両者の後援を受けて運営された。 |
寛永13年 (1636) |
金杉の土地もまた、武家用地となったしまったため、戸崎台(文京区白山)へ移転することになった。 |
寶永6年 (1709) |
5代将軍綱吉公が亡くなり、御台所である鷹司氏は出家して、浄光院殿と呼ばれるようになった。それにより、当時第13世笑翁宜悦和尚は、当寺の名前が鷹司氏の法号と同じであることに遠慮し、同年お伺いをたてた上、新しく当寺の大檀越となった戸田康長の法号、祥雲院殿一運宗智大居士に因んで、この時から浄光院を改めて祥雲寺と称するようになった。 |
明治36年 (1903) |
第29世善翁篤友和尚は、祥雲寺を池袋原に移すことを決意し、移転を開始。 |
大正4年 (1915) |
移転が完成。 |
昭和9年 (1934) |
不慮の災難に遭い、堂塔は全て無に帰した。 |
昭和10年 (1935) |
第30世篤仙頼應和尚は、伽藍の復興に努め、旧伏見宮家御別邸を譲り受けて東御殿を書院に、西御殿を方丈に移築した。 |
昭和56年 (1981) |
本堂を再建 |
平成8年 (1996) |
客殿および庫裡を新築 バリアフリー化を実現 |